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 時間を確認するために開いた、携帯電話のディスプレイに、『PM 6:23』という文字が浮かんでいる。
 
私は、ため息を吐いてそれを閉じ、鞄にしまうと、昇降口へと足早に向かった。
 
小高い丘の上に建てられたこの高校は、丘下にある最寄駅に行くまで、少し時間がかかる。
 
廊下の窓から見える空は、すっかり夕やけ色に染まっていた。

 (…………早く帰ろう)

 階段を下りる自分の足音が響く。窓から差し込んだ夕日が、踊り場で揺れている。

 どこかから、吹奏楽部の誰かのものだろう、管楽器の音色が聞こえているけれど、私が今いるここ、
 本校舎には、人の気配はほとんど感じられない。

 ……本当は、もっと早く帰れるはずだった。
 こんなに遅くなったのは、急に委員会の仕事をしなければならなくなったからだ。

 
(委員長も、もっと早く伝えてくれればよかったのに)

 そう思いながら、1階までの階段を駆け下り、昇降口へと続く廊下を歩き始める。
 ふと、その昇降口からこちらへやってくる人影に気がついた。
 こんな時間に、校舎内へ入っていくなんて珍しい。
 少し気にはなったけれど、私は“彼”をさほど目に留めることもなく、自分の足を進めた。

 「袴多さん」

 彼の横を通り過ぎると同時に、名前を呼ばれ立ち止まる。
 私を呼んだ彼は、どこかで見たことのある顔だ。
 茶色に染められた、そろそろ“長髪”と言ってもいいほどの長さの髪。
 授業の際の教室移動だったか、委員会でだったか。
 その辺りはよく覚えていないけれど、知っている顔、だった。

 
「ちょっと、話があるんだけど……いいかな」

 彼は、はにかんだような微笑を浮かべた。

 
(もしかして……)

 少し、胸が高鳴った。
 “話がある”
 その言葉だけで、なんとなく察しがつく。

 
「……あ…うんっ」

 私は、自分の声が少し上擦るのを感じながら、そう答えた。
 今まで『早く帰りたい』、その一心だったのに。
 静かな緊張が、体中に広がってくる。

 ……ドキドキする。

 考えられる理由はいくつもあるけど、たぶん……きっとそうだ。
 ドラマや漫画でよく見るシチュエーション。
 思いもよらなかった出来事に、知らず知らず頬が緩んでしまう。

 
「えっと……ここじゃまだ、誰か来るかも知れないから」

 そう言う彼の背中を、小走りでついていく。
 足を一歩踏み出すごとに、心臓の音が大きくなってくる。
 一度も喋ったこともない男の子だけど。
 私を……好きになってくれたんだ。

 たどり着いたのは、昇降口のは反対の方向の、理科室や物理教室のある、
 専門教室棟の校舎の裏手だった。

 日も当たらないその場所は、昼間よりも一層薄暗く感じた。
 人目を避けるように、この時間帯は誰も来ない場所を選んだのは、
 これから彼からされるだろう、“告白”のため。

 ……何の疑いもなく、私はそう、思っていた。

 
「……いっ!」

 突然、背中に強い衝撃と共に鈍い痛みが走る。
 勢い任せに、校舎の壁へと押し付けられたのだと知ったのは、
 肩を掴む彼の両手が少し震えている事に気付いてからだった。

(……すごい力)

 私は驚いて、彼の顔を見つめた。
 遠くから見る分には、整ったように見えた顔。
 頬に、額に、ブツブツとニキビが浮かんでいる。
 細いその目は、欲望にギラギラ光っていた。

 そしてそれは、ゆっくりと近づいてきた。

 
「なぁ。いいだろ?」

 
「……え?」

 
熱い息が、私に降りかかってくる。
 
それが嫌で、顔を横に背けた。
 
逃げようと抵抗しても、その倍の力で抑え込まれる。
 
更に顔が近づく。全身の鳥肌がたった。

 
「お前、インランらしいし。誰とでも寝るんだよな?」

 
「なん……っ」

 荒い吐息が混じった粘つくような声で、彼は私に訊いた。

 
「お前と同じ中学のヤツに聞いたんだよ」

 
「えっ!?」

 
「いいじゃん。一度ヤラせろよ。誰でもOKなんだろ?」

 "ヤラせろ"
 私の頭の中に、彼の言葉が響く。


 
(まだ……なんだ)


 強引に顔を寄せてキスしようとする彼と、もがく私。
 意地悪く歪んだ彼の顔がだんだんとぼやけてくる。
 私にはそれが、近すぎるせいなのか……涙のせいなのか…よくわからなかった。

 まだ、消えていない。
 ……もしかしたら、この町にいる限りこれから一生、消えることはないのかもしれない。

 私の……あの噂は。












 **



 「その……俺、袴多のこと、好きだ」

 放課後の教室。
 窓から夕陽の光が射し込んで、春の名残の暖かな風にカーテンがひらひらと揺れていて。

 彼氏と……彼女。
 それまでの私にとって、そんな関係は、少女漫画の中でしか知らないものだった。

 
「……う……うそ……」

 
「嘘じゃない」

 思わず、口をついて出た私の言葉に、高屋くんは苦笑した。
 もしかして彼に聞こえてしまうんじゃないかと思うほど、胸がドキドキしていた。

 
「だ……だって、高屋くんが……なんて……」

 「俺は、冗談でこんなこと言わないよ」

 彼はひとつ大きく深呼吸をすると、緊張のためか、少し強張った笑顔を私にむけた。

 
「どうして好きになったかなんて……俺にもわからない。でも……」

 高屋くんは、まっすぐ私を見つめた。
 光に、彼の黒髪がキラキラと輝いていた。

 「……気づいたら、お前のことばっか考えてて……その……って、何言ってるんだろうな」

 オレンジ色した夕やけに照らされて、よくは見えなかったけど、
 私と同じように高屋くんも、顔を真っ赤にさせていたんじゃないかと思う。
 照れて顔をそらした彼を見て、鼓動が更に激しくなった。

 だけど。

 信じられなかった。
 どうして私を……そうも思った。
 それは私が、袴多ひとみが、とても地味な人間だったから。
 彼に釣り合うとは、到底思えないほどの。

 「……わ、私……も……っ! 私も、高屋くんが……高屋くんのことが、好き」

 震える声で答えると、彼はほっと安堵したように、「ありがとう」と言った。
 こうして私たちは付き合う事になり、私と彼――高屋直樹くんの、
 短く、一生忘れることの出来ない3ヶ月が、始まった。

 それは、中学2年生の、夏のことだった――。




 小さい頃からそうだった。
 自分から、誰かに話しかけることが苦手で、いつも周りの空気に流されていた。

 ……だから、なのかな。
 みんなに意見すること。
 それがとても怖かった。

 どうしてなのか、今ではわからない。

 一歩踏み出す勇気がなかっただけ……なんて、在り来たりの理由を挙げておこうかしら。
 あの頃の私は、伸ばし放題の髪をきつく三つ編みにして、同じ年頃の女の子がしないような、
 黒縁の大きな、野暮ったい眼鏡をかけてた。
思い出すと、少し笑っちゃうわ。

 ……でもそうやって一人でいるうち、自分を押し込めているうち、何か今までとは違う、
 不思議な想いが生まれていることに気づいたの。
 けれどそれは、決して外に出してはいけないものだとわかってた。
 
 だから私は……あの頃の私は、その想いを隠し通そうと思っていたの。



 中学に入学してから1年経ち、初めてのクラス替え。
 それまでの1年間、一緒に勉強した子もいたけど、大半は初めて見る顔だった。
 ……同じクラスだった子だって全員覚えてないのに、他のクラスの子なんてわかるわけない。
 今年だってきっと、今までと同じ。
 みんなとほとんど交流することもなく、仲の良い友達も作れずに1年間を過ごすんだろう。
 そう思っていた。
 でも、そんな私に声をかけてくれたのが、高屋くんだったの。

 
『"袴多"……って、珍しい苗字だな。俺、高屋直樹。よろしく、お隣さん』

 ……彼の、笑ったときの白い歯がとても印象に残ってる。
 短めの黒髪はさらさらしてて、"爽やか"っていう言葉がぴったりで、明るくて、運動も出来て。
 もちろん、クラスでもすぐに人気者になった。

 だから、私のことなんて気にかけないだろうって思ってた。

 私は可愛くなんてないし、面白いこともだって言えない。
 少なくとも私は自分をそう思っていたし、たぶん、他のクラスメイトも同じだったと思う。
 それでも、彼は毎日、隣から話しかけてくれた。
 いつも笑って、私の言葉のひとつひとつにも相づちを打ちながら。

 
『袴多はマジメ過ぎなんだよ。大丈夫だって。思い切ってみんなに話しかけてみな』

 
『……無理……だよ。だって……急に話したりしたら……みんな変に思うよ……』

 
『思わない。だって、俺は袴多と話してて楽しいからさ』

 そうやって高屋くんは、私をみんなの中にとけこませようとしてくれた。
 最初は、彼は私だけじゃなくて、みんなに……クラス全員に愛想が良いんだと思うようにしてた。
 出来るだけ、自分の都合の良いようには考えないように。
 だって私は……いつのまにか、彼のことが好きになってたから。
 だから、高屋くんと彼氏彼女の関係となったあの日。
 嬉しくて……嬉しくて、たまらなかった。

 
「俺さ、たまに思うんだけど」

 付き合い始めてから、二週間ほど過ぎたある日の、学校の帰り道。
 あの日と同じ、オレンジ色の夕やけが私たちを包んでいた。

 いつもの河川敷の小道を歩きながら、今まで担任教師の物まねをしながら笑っていた高屋くんが、
 急に真面目な口ぶりで話し始めた。

 この小道をまっすぐ行くと、小さな駅がある。

 そこは、毎日彼と出会い、彼と別れる……場所。
 静かに、彼のほうに顔を向ける。
 遠くで踏み切りの音が鳴っているのを、聞いたような気がした。

 高屋くんの指が私の耳元に伸びる。
 胸がときめいたのも束の間、彼は私の三つ編みをそっと引っ張った。

 
「三つ編みもいいけどさ、ひとみは髪をほどいても可愛いと思うよ」

 「え……っ」

 私の三つ編みを指で弄ると、高屋くんはいつもとは違う、少しはにかんだようだ笑顔を浮かべた。
 男の子に意識して髪を触られるのは、もちろん初めてのことだった。

 苦しいくらいに胸が高鳴る。

 それは、もしかして鼓動の音が彼に聞こえるんじゃないかって、心配してしまうほどだった。
 彼は、私のありのままの姿がいいと言ってくれたのだろうか?
 私は少しためらったあと、きつく編んだ髪をほどき、おずおずと彼を見上げた。

 
「……こう……?」

 伸ばし放題の、ウェーブがかった髪が風に煽られる。
 すると彼は一度だけ頷き、ほんのりと頬を赤らめて、

 
「うん……可愛い」 

 と、呟いた。

 高屋くんが、私を受け入れてくれた。

 ……私を。
 私の全てを。


 そのとき確かに、そう、思った。

 「……っ! ひとみ?!」

 私はいつの間にか高屋くんの腕を引っ張って、河川敷を駆け下りていた。

 
「ちょ……っ、待てって! ひとみっ!」

 彼の声。

 でも、私は振り向かなかった。
 私は……私は、私自身を受け入れてくれる人に出会えたんだ。
 きっと高屋くんは、私をわかってくれる。

 
「……っ……ひと……み……っ」

 高屋くんが、また私を呼んだ。
 けれどそれは、走り去るトラックの大きな音にかき消されて、私には途切れ途切れにしか聞こえない。
 彼は、私を制するかのように何度も呼んだけど、私は気にすることなく走った。

 夕やけに染まった河川敷で、唯一、その光が届かない場所。
 小道と道路が交差する、そこに掛けられた大きな橋。
 その橋の下で、私は立ち止まった。

 すぐ横を、それほど浅くはない川が流れている。
 ここなら影になって、誰かに見られることはない。
 ……そんな訳はないのに、何故か確信していた。

 
「……ひとみ……?」

 呼吸を整えながら、高屋くんは私を呼ぶ。
 不安げな顔を私に向けている。

 
「なぁ……、どうしたんだよ。ひと……」

 
「私のこと、好き……だよね?」

 彼の言葉を遮って、私はやっと声を出した。
 鼓動が鳴り止まない。
 全力で走ったから。ううん、そうじゃない。

 
「私のこと……受け入れて…くれるよね?」

 
「ひとみ……?」

 ブレザーのボタンを外す。
 そして、それを脱いだ。

 
「なに……を……」

 紐状のタイを外し、ゆっくりと彼を見上げる。
 高屋くんは、どうしていいかわからないというように、私を見つめていた。
 構わず、私はワイシャツのボタンに手をかけた。

 肌が少しずつ露わになる。










 誰にも見せたことのない胸。
 薄い桃色のブラジャーに包まれたそれを、高屋くんは凝視し、すぐに私から顔を背けた。
 
 
「……やめろよ」

 彼の頬は赤く染まっていた。
 ……女の子の体なんて、きっと見たことはないのだろう。

 
「……高屋くんに……見て欲しい」

 高屋くんは何も言わず、唇を噛んだ。
 彼の握られた拳が、肩が、震えている。

 
「……お願い……」

 
「やめろよ。俺は……お前を……」

 
「私の全部を……見て欲しい」

 
「やめろよっっ!!」

 私が、ずっと押さえ込んでいたもの。
 それは、『ただ、私を見て欲しい』という感情だった。
 私には、私を愛してくれる両親がいる。家族がいる。
 でも、家族に…じゃなくて。


 一歩。

 高屋くんに近づく。
 足下が隠れるほどに伸びた雑草が、微かな音を立てた。

 
「……いやだ」

 彼は、私を見ない。
 目蓋を力いっぱい閉じて。
 眉間に皺を寄せて。

 
「俺は、お前とそんなことをしたいんじゃないんだっっ!!」

 高屋くんが声を張り上げた。


 ずっと考えていた。
 私には何かが欠けている。
 心の中にぽっかりと、埋めようとしても埋められない、何か深い穴のようなものがある。

 気づかないふりをしていた。
 けれどそれは、無視できないほどに存在が大きくなっていった。
 ……その中を覗き込むのが怖かった。
 覗き込めば……正面から向き合えば、私自身が急に変わってしまうような気がしていたから。

 でも、本当は変わってしまいたかったのかもしれない。
 変わりたいと願っていたのかもしれない。
 だから、誰かに、この想いを預けたかった。

 私を変えてくれる、誰かに。
 その時の私にはそれが高屋くんだと。

 ……彼だと、思ったのだ。

 だから……。
 だから私は……。

 気がついたら私は一人、橋の下に立っていた。
 目尻に涙を浮かべて、走り去っていった高屋くんの顔をうっすらと覚えている。

 
「……ごめん……ね……」

 もうこの場には居ない彼に、私は呟いた。
 ワイシャツの裾が、風に揺れていた。





 『袴多ひとみが、裸で高屋にせまっていた』

 次の日、学校ではそんな噂で持ちきりだった。
 そして、日を追うごとにそれには尾ひれがつけられ、どんどん大きくなっていった。

 『袴多ひとみは、誰とでも寝るインランな女らしい』

 
『袴多ひとみは、高屋とヤる目的だけで付き合った』

 
『袴多ひとみが、夜のコンビニで男を誘っているのを見た』

 
『袴多ひとみは、繁華街に頻繁に通っているらしい』

 
『袴多ひとみが、年上のオジサンとラブホに行ったらしい』

 耳にするだけで、心が切り裂かれるような、それらの噂を、私は否定しなかった。
 否定しようにも、聞いてくれる友達はいないし、無駄だってわかっていたから。

 あの日から、高屋くんは学校であまり笑わなくなった。
 正確には、私のいるところでは……。

 隣だった席も離れ、私と目が合いそうになると視線を逸らす。
 話しかけようとしても、まるで避けるようにして足早に去ってしまう。
 仕方のないことだったかもしれないけれど、私には、どんなひどい噂よりも、彼のその態度が悲しかった。

 あの日。

 彼に告白されたあの夏の夕暮れの教室で。
 私は、自分が世界で一番幸せな女の子なんじゃないか?とまで思ったのに――。

 そして私は。

 自分の心をもっと押し込めるようになった。
 私の胸に生まれた不可思議な欲求。
 きっと外に出すことは許されない、想い。

 今の私を変えたい……変わりたい。
 全てを受け入れて欲しい。
 ありのままの私を見て欲しい。

 そんな気持ちを、胸の奥深くに沈めて。

 当然かもしれない。
 小さくて閉鎖的な田舎町だから、噂は、いつのまにか近所にも広まっていたのだ。
 それでも今までと変わらずに接してくれる家族は、とてもありがたかった。
 けれど……私のせいで一緒に悪く言われてしまうことが、とても申し訳なくて。
 いつしか、出来る限り早く、あの家を出たいと思うようになったのだ。

 ――そして、

 私は次の年、住んでいる町から少し離れた進学校を受験した。
 


**


 
(……でも、同じ中学だった子がいたなんて……)

 人影のない校舎裏で、力任せにせまってくる男の子の体を精一杯食い止めながら、私はそんなことを考えていた。

 あの暑い夏の、人生で最も幸せだった日々。

 そして、その後に訪れた悲しみに染まった日々。

 ……もう、忘れたかったのに。

 忘れて、しまいたかったのに。

 ――たぶんこれからもずっと、忘れることのできない、記憶。

 
「……っ、離してっっ!!」

 「うおっ!」

 隙を見て、思いっきり彼を突き飛ばす。
 彼がバランスを崩し、尻もちをついたのを見て、私はすぐに逃げ出した。
 うしろから、男の子の怒鳴る声が聞こえる。
 私はそれを無視して、人影のある方へ逃れながら、堪えきれず流れ出した涙を拭った。

 
「……いつに…なったら……」

 いつになったら、あの噂は消えるのだろう。
 この感情も………いつになったら消えるのだろう。

 ……それとも。

 
(抑えなくてもいい日が、来るのかしら)

 私は、乱れた髪の毛を掻きあげながら、そっと、藍色に染まり始めた空を見上げた――。





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